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大豆製品のあたまの中。

気づきや学び、考えてること。頭の中にあるもの。

過去の虐待に、まだ苦しみ続けている方へ。同じ経験者による、ほんの少しだけ心が軽くなる方法 ②私の家族と、虐待の始まり

過去のお話

大豆製品です。

今回から、自分の虐待体験を書いていきたいと思います。

それで、簡潔に書くために実際経験した時期だけに絞ろうと思い出していたのですが、結局すべて繋がっていると思うので私自身の生い立ちをバーッと書いていくことにしました。

自分でもなかなか波瀾万丈だな、と思います。中学の頃の担任にいっそのことTV出たら?と言われたのを思い出しました。

長いのでお暇な時にご覧くださいね。

過去記事貼れないので、せめて少しでも読みやすいように「過去のお話」というカテゴリーを追加しました。

 

血の繋がった父を知らない

さて、まずは私の生まれの事情からのお話です。

私の実の父親は不明。

勿論母だけは確実に知ってますが、母に聞くと未だに半狂乱になり泣き叫ぶので話を引き出せず、他の親族に聞いても一族総出で沈黙を守っています。

戸籍を確認しても、父のところは白紙。

私を産むことを周囲に大反対されていたけれど押し切って産んだ、と母から聞きました。

母の地元は東北ですが、東京で働いていた時に出会った人?との子どもらしいので地元にいる親族はよく知らないかと思います。

祖母や叔母はその時既に東京で暮らしていたと思うのですが、母は当時疎遠になっていたようなのでとにかく不明。生死すら不明。

以上が私が知っている父の情報の全てです。

実の父については未だに謎しかないですが、今は知る機会があるなら知りたいけど、今更なことだと思っています。

でも、もし調べる方法をご存知の方いらっしゃったら教えてくださると嬉しいです。

 

唯一平和な時を過ごした8年間

記憶にあるのは大体2,3歳くらいからだと思いますが、父と母との3人で関東某所で暮らしていました。

私の地元は東北と周囲に言っていますが、暮らした期間は実は関東と東北の半々なんです実は。

 

育ての父は不動産会社を経営していた人でした。

母は彼との子どもをあえて作らなかったそうです。理由は後述するので今は割愛。

ひとり娘で、本当になに不自由なく我が侭に育ててもらいました。

母はこの時専業主婦。

彼女の宝石専用の部屋があったり、天井までの桐たんすにお着物がびっしりと入っていたりと、ある程度裕福に暮らしていたと思います。

大好きな犬もいて、おやつは母の焼いたケーキを食べて、お家は庭付き一戸建て。

庭には母が好きな薔薇をはじめ、様々な花で埋め尽くされていました。

今思えば笑えるくらい、理想の幸せを絵に描いたような家族像でした。

多分、母の理想の幸せ像を映し出していたんでしょうね。

思い出しても、私にとってもこの時が一番幸せでした。

父も母も大好きでしたし、父も、血が繋がっていない私を本当に大切にしてくれました。

平和な時を過ごした、唯一で、貴重な8年間でした。

 

父の裏の顔

父は不動産会社社長でした。表の顔は。

会社を経営していたのは本当みたいですが、裏の顔ももっていた人でした。

まあ実際、どっちが本業なのかは不明ですが。

それを聞いてから思い出せば、成る程と納得できる記憶はたくさんありました。

例えば毎日のようにリビングに集まっていた「父の部下」という人達が、今思えば随分厳つかったりとか、他諸々。

補足ですが、父は安岡力也氏に瓜二つでした。


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私今も結構応援していますけど、安岡力也氏。面影を感じるからなのね。

補足ついでに今思い出したけど、そういえば「お嬢」と呼ばれて盛大な誕生日パーティーやってもらってました毎年。

厳 つ い 大 人 た ち に 囲 ま れ て な。

知ったうえで思い出してみると、当時は色々と面白いことたくさんあるわ。これを肴にお酒呑んだら楽しそう。

 

幸せの終わり

10歳の夏休みの頃、母に連れられ、2人で母の故郷である東北に引っ越しました

私が聞いている理由は父の不動産会社の倒産。

それ以外にもたくさん理由はあったでしょうが、要は金の切れ目が縁の切れ目です。

実家といっても、もう東北に彼女の実家自体が存在するわけではありません。

彼女が育った家族もばらばらに崩壊していますから。

高校時代からの親友を頼りに、親友のお家のそばに娘を連れて移り込んだわけです。

ちなみにこの時はまだ父との離婚が成立していません。父が猛反対し、逃げてきた状態だったみたいです。

離婚が成立するのは私が17歳。これから7年後の話です。

 

専業主婦で過ごしていた彼女が、ただでさえ仕事が少ない田舎で、我が侭な子どもをひとりで育てるのは大変なことでした。

昼だけでは足りず、夜も働き始め、家には寝に帰るくらいになりました。

私はというと、標準語しか知らなかったのに方言の激しいところに行ったので、まず学校の先生の言葉すら聞き取れませんでした。

TVで字幕テロップつきで放映されるレベルの方言のとこです。

 そして田舎あるあるですが、言葉の違う人を排他的に見るのがどうしてもあり、それは子どもは特に顕著で、馴染むまでとても苦労しました。

家に帰っても、今までは専業主婦であった母が出迎えてくれたのが当たり前だったのに、独り。

言葉もわからないところに連れて来られ、家でも食事を独りで食べることになり、大好きだった父も、幼なじみもいない。

孤独で悲しくて、「帰りたい」「ここは嫌い」「独りでいるのも寂しい」と随分我が侭を言って毎日泣いていた記憶があります。

母も、私になるべく生活レベルを落とさないよう、侘しい思いをさせないようにしようと努めたのでしょう。

父がいないぶん、自分が父親と母親の二人の役をなんとかこなそうと随分無理をしたと思います。

習い事は続行させてくれていましたし、欲しいものなども色々買い与えてくれました。

そしてその為に昼夜働き心身ともに疲労が溜まり続け、そうまでしてるのに私は寂しくて悲しいと泣いている、という悪循環が始まりました。

 

虐待の始まり

いつから始まったのかは定かではないですが、まだ私は小学生だったので10〜12の頃からの気がします。

彼女も心身ともに疲れ果ててたんだと今では思うのですが、私が泣いたり、帰りたいと言うと感情を抑えきれなくなり、泣き叫びながら殴るようになりました。

もう精神が限界だったんでしょうね。

虐待経験者の皆さんもそうだと思うのですが、一度タガが外れると、どんどんエスカレートしていきました。

彼女からすると、私の為に自分がこんなにやっているのになんでその自分を困らせるようなことをするんだ、という気持ちだったんだと思います。

そして家には私と彼女の二人だけ。どうしても私に全て向かってしまうのも理解できます。

殴る蹴るから始まり、椅子やお皿など物で殴る。

「あんたさえいなければ」「あんたを産まなければよかった」と、

決まって同じ言葉を叫びながら殴り続けました。

この言葉は、私が上京する18歳まで彼女から常に浴びせられ続けた言葉です。

そして、私が今も一番抱えて離すことができない言葉です。

 

小学生の私は、言葉すらわからない見知らぬ土地で、母しか頼りになる人はいません。

地元にいる親戚にも当時は会ったことがなかったので、正真正銘、母に見捨てられたら誰にも頼れない、生きていけないと恐怖心を感じていました。

そういう子どもはどうするか?

常に母のご機嫌を伺うしかなくなるのです。

嫌われてはご飯も食べられませんからね。

実際、ご飯を食べさせてもらえず、お腹が空いて余所様から内緒でいただいたことも何度かありました。必死に母にバレないようにしながら道ばたで食べたりもしました。

 

子どもは不思議なもので、それでも私は母が好きでした。

だから、父がいたころは毎日身綺麗にしていた自慢の母の、疲れてやつれた顔や泣き叫ぶ姿を見る度に、本当に、私がいるから母をこんなのに変えてしまったのだと思っていました。

好きな母に嫌われないように、褒めて、優しくしてもらえるように、言われたことをきちんと守り、我が侭もなるべく抑えて、テストでも一番をとらないと。

この頃から、母に褒めてもらえるように毎日必死でした。

褒めてくれる時はいつもの、私の知っている優しい母に戻るからです。

それと同時に、母だけでなく、周囲の人全てに褒めてもらわないとだめだと思い込みました。

なぜなら、一番いい子は母にとって自慢になるからです。自慢の娘なら、愛してくれるでしょう?

 

 更なる崩壊のはじまり

それなのに、私はやってはいけないミスを犯してしまいました。

父からの電話で、決して言ってはいけないことを言ってしまったのです。

今思い出しても、最大の失言で、最大の後悔です。

父とは離婚調停中?かは不明ですが、東北に引っ越してから父と会えることはありませんでした。

母がいない時間に、父から数回、私に電話をかけてくることがあったのです。

 

リンクが貼れないのが残念ですが、「女郎蜘蛛」の過去記事で書いたように、我が一族の女たちは男性に縁が深い家系です。

勿論母も。そして彼女は共依存者。男性がいないと生きていけない女です。

つまり、東北に来てからも、男性の影は既に常にあったのです。

 

当時の彼女の「お友達」の男性を、私は嫌いでした。

この時はまだ父を実の父だと思っていたし、なんでこの人がいつもいるんだろう、と思っていました。

そして、父も彼女のそんな性質を知っていたのかは不明ですが、あるとき私に聞いてきたのです。

「お母さんは今、仲のいい男の人はいるのかな」と。

今思い出しても本当に後悔しかありませんが、バカな私は正直に答えてしまいました。

母も、私と父がたまに連絡をとっているということを知らなかったのです。

内緒だよ、と父とした約束を、私はバカ正直に、きっちり守っていたのですから。

ここで思い出して欲しいのが、父の裏の顔。

当時の私にとっては世界で一番優しい父の顔しか知りませんでしたが、この後離婚成立する17歳まで、私と母は父に怯えつづけ、更に母の虐待も加速する日々が始まるのでした。

 

 

と、次回予告のような終わり方で、長くなったので続きにします。

中高くらいが一番酷いので、先が長いですね。短くしよう。

それでは。