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"すきなこと"をさがす旅

シンプルに、軽やかに。好きなことをすくいあげていきます。

「今」好きなお洋服に、自然に気付くきっかけは

つぶやき 見直したもの

こんばんは。

突然ですが、大豆製品の好きな家事ランキングを発表致します。

1位 小物のお手入れ

2位 掃除

3位 お洗濯

 

磨いてツヤツヤになるものが好きみたいです。ワックス掛けとか大好き。

皆様はどの家事がお好きなんでしょうか。

 

で、私が断トツ嫌いなのがアイロン掛け。

理由はひとつ。ただひたすら面倒くさいのです。

あといくらYouTubeとか見て勉強しても全然上達しないのも嫌。

逆にシワが酷くなるんだけど一体どういうことなの。

そんな大豆ですが、本日珍しくアイロン掛けの神が降りてきたので

ここぞとばかりに手持ちの服を片っ端からアイロン掛けまくりました。

アイロン掛けすぎて右手の親指が水ぶくれになって痛いです。

アイロン掛けって水ぶくれできる行為だった...?初めて知ったわ。

 

「なんだか素敵な人」の共通点

アイロン掛けが嫌いすぎて、本音はお洋服がシワシワでも別にいいレベル。

けれど「なんだか素敵な人」と思う男女を観察してみると

靴や小物のお手入れがされているのは勿論、

お洋服がピシッとしていてシワもなく、きちんとした印象の方が多いんですよね。

そういう方に憧れるということは本心はそうありたいと望んでいるということなので

毎回渋々重い腰をあげてアイロン掛けをしています。

でも毎日の日課にはどうしてもできないので

やるときに一気にまとめてやっちゃうのがいつものパターン。

その際ついでに飛び出た糸を切ったり毛玉を除去したりとお手入れを+していると

気付けば結構な時間が過ぎてしまいます。

そんなところもアイロン掛けに気が進まないとこなのよね。

 

嫌いな家事をわざわざする理由

アイロン掛けの必要ない服だけに絞ったほうが楽だろうな、とか

使い捨ての様にしたら手間は掛からないだろうな等とは思うこともあったのですが

それは私にとっては楽しくないので今は好きなお洋服を着る方を選んでいます。

好きな服やモノを、お手入れして大事に扱う人に憧れるのですよね。

 

それに、あえて嫌いな家事をすることのメリットも。

それは大事な時間を割いてまでお手入れする価値のあるものかどうかを自問自答できること。

その品物の値段や購入時期などは関係なく、平等に判断できるので

私にとっては一番の「今、持つもの」の基準になってます。

状態を確認して、アイロン掛けてクリーニング出すモノを仕分けして、

糸を切ったり毛玉を取ったりボタン付け直したり...etc.

本当お洋服の管理って面倒くさいですよね。その時間あるなら他の事したいわ。

でも時折お手入れしないと、気付いたときには見窄らしくなっちゃいます。

それは嫌だし、好きなものは美しくあってほしい。

なるべくその手間を最小限に抑えるためには、やっぱり

『本当に今気に入っているモノを自分が管理できる量で持つ』

という初心に戻れるんですよね。

気に入っているものなら気付けば熱心にお手入れしているから分かる。

自然に選別出来るので、ブログ始めた当初のように、わざわざ捨てるものを探す必要もないのもいいところ。

 

という訳で、本日のスーパーアイロン掛けタイムでまたいくつか手放すことになりました。

気に入ってるつもりだったけど、今はそんなでもないみたいなものが幾つかあった。

「以前」と「今」は違いますものね。

なんとなく、で過ごすと気付かないけれど。

 

 そういえば今日は満月。

満月は完了のエネルギー。浄化、手放す意味があるそうですね。

突然降りてきたアイロン掛けの神の理由ももしかしたらそれだったのかも。

それではおやすみなさい。

 

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東京の中心で、マダムへの愛を熱苦しく語る夜

つぶやき

 本日図書館で借りた本。

島田順子さんがとにかく素敵すぎる!

めくる度、ときめきが溢れます。

ほとんどの写真が満面の笑みで写っているのも可愛いにも程がある。

全開の笑顔って、おいくつの方でも本当魅力的ですよね。

 

あなたの好きなのは何?と問われたら

「猫と華やかなマダム」

と即答する大豆製品によるマダムへの愛をただ語りたいだけの記事です。

宜しくどうぞ。

島田順子スタイル パリ、大人エレガンス

島田順子スタイル パリ、大人エレガンス

島田順子スタイル パリ、大人エレガンス

 

 

好みのマダム

私、マダムが大好きなんです。

特に、 華やかな色味やデザインを「私はこれが好きだから着てるの」と堂々と自由にお召しになっているマダムが大好き。

シックな色を着こなしている方もとても都会的で素敵だと思いますが

花のように色鮮やかな色を次々と着れるのって女性の特権だと思うんですよね。

勿論ピンクとか着こなしちゃうおじいちゃんにも萌えたぎりますが。

だからド派手だろうがなんだろうが

自分の好きな色や柄に包まれて楽しそうにしているマダムが本当可愛いと思う。

いくつ歳を重ねても、自分の好きな服を着て

髪も好みのようにセットしてメイクもネイルもしている女性は素敵ですよね。

 

華やかマダムと縁がある日々

以前働いていた整骨院の患者さんも、今のお店のお客様も

皆さん自分がお好きなカラフルで華やかなファッションのマダムが多くて、毎日楽しく働いてます。

80歳以上のマダムでも、きちんとネイルもお化粧もされてるの。髪もふわふわです。

白髪のふわふわマダム可愛過ぎて悶えるよ...!

整骨院とかも、ご近所の方ばかりだから適当な格好でいいんじゃないかと私は思っちゃうのだけど

場所柄もあるだろうけれど、ほとんどの方がきちんとお洒落して来られてたんですよね。

腰が曲がって松葉杖をついてる方でもきちんと髪もセットしてお洒落して来られてて、

一応危ないから補助するように隣についていた際、きょとんと見上げられて

「わたくし、歩けますのよ?」と言われた時は本当萌え死にそうになりました。

もーーーマダム可愛いよマダム。萌えが止まらなくて震える。

整骨院の患者さんは、いわゆるお嬢様ことばを自然にお話される方が多くて毎日悶えてました。

「そうでございますのよ」とかごく自然に言っちゃうの。可愛い...!!

ご自宅のお庭にある小屋が、話を聞くと我が家と同じ大きさで驚愕したりなどと毎日刺激的でとても楽しかったです。

庭の小屋と一緒かよ、と。別世界で面白過ぎるわ。

毎日走り回って大変だったけど、院長があそこまで性格悪くなければずっと働いてたなー。

残念でしたがいい思い出です。

 

お嬢さまことば速修講座

お嬢さまことば速修講座

 

 

美意識に沿った生き方に憧れる

多分美意識の問題なんでしょうね。

いつでも自分の美意識に適った状態でありたいという。

なんて素敵なんでしょうか。

今の自分は全然ほど遠いけれど、少しずつでもそういう生き方に近づけていけたらいいなーなんて憧れます。

今の職場からの転職を一時真剣に検討してましたが、

毎日素敵マダムと出会って色々お話聞けるなんて最高の職場じゃないかと思い直してきました。

うちのお店の商品が華やかだからそういうのがお好みの方が集まってくださるのよね。

毎日お客様とお会いするの楽しいです。お仕事で楽しみがあるっていいことだ。

 

うちの祖母もかわいいよ

なんでこんなに華やかなマダムが大好きなのかっていうと、

多分うちの祖母もこういう感じだからなんですよね。

メイク・髪・ネイルがきちんとしてないとお出かけしないと徹底してます。

だからコスメやネイルなどもよくあげてました。

母とは合わないけれど、祖母とは仲良しなの。祖母も母と合わないけどな!

うちの祖母が日本一かわいいおばあちゃんだと思っていたけど、東京に来て素敵なマダムがたくさんいることを知り幸せ。

うちの祖母本当かわいいのです。女郎蜘蛛の重鎮だけど。

孫をも魅了する女郎蜘蛛ぶり尊い。貢いでますよ私。

彼女が喜んでくれるならそれでいいの(末期)

 

 島田順子スタイル

さて、本の中の島田順子さんの素敵なお写真を少しご紹介。

赤とピンクのノースリーブワンピース可愛い!いい笑顔ですね。

白髪でピンクや赤をお召しのマダムって本当素敵。合いますよね。

http://blog-imgs-56.fc2.com/k/u/m/kumimail/fc2blog_20130201100603bf2.jpg

 

年齢を重ねてもピンヒールを履けるなんてすごい。

http://blog-imgs-56.fc2.com/k/u/m/kumimail/fc2blog_20130201100617b95.jpg

 

このスエードのブルーのセットアップ素敵ですよね。

日本じゃなかなかデコルテと二の腕を出すのは躊躇しちゃうけど、でも素敵よね。

http://blog-imgs-44.fc2.com/o/s/h/osharedaily/201212200902000.jpg

 

ヒョウ柄!

今回写真載せなかったけど、ヒョウ柄のコートをお召しになってる写真も最高にかっこ良かったです。

http://magazineworld.jp/core/db/img/large/2228.jpg

 

お花だらけ可愛い。笑顔も可愛い。

整骨院の患者さんで、好きだからと毎日お花柄のセットアップお召しになられてたご高齢のマダムがいました。

冬になるとポンポンしたお花が全体についてるコートをお召しになって来院されるのかわいい。

その方の来院理由は

「ペットのトイプードルを毎日抱っこして歩いてたら腕痛くなっちゃったの」

なんだその腕痛めた理由 かわいすぎるだろもー勘弁して(泣)

http://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/488103c6bc2f00f08cd8905ff891f464afc0726f.61.2.9.2.jpeg

 

 

以上。

テンション上がり過ぎて私にしては長くなりました。

まだまだ溢れて足りないけど、気づけばこんな時間なのでやめときます。

島田さんの他の本も読もうっと。

いやぁ〜、マダムって本当に素敵ですよね。

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-eb-13/golden_age_of_tvmovis/folder/1648141/84/54388584/img_2?1432901504

それでは。

 

島田順子スタイル

島田順子スタイル

 

 

 

Advanced Style--ニューヨークで見つけた上級者のおしゃれスナップ

Advanced Style--ニューヨークで見つけた上級者のおしゃれスナップ

 

 

【敏感肌の炎症が治った!】大豆製品改め”ココナッツオイル”になりそうな夏

美容関係 おすすめ

おはようございます大豆製品です。

普段の生活で大豆製品の消費量がやたらと多いことからこの名前にいたしましたが

ここ最近は全身ココナッツオイルまみれになっているので

いずれ改名の日も近いやもしれません。

そんな訳で、皆様も既にご存知であろうココナッツオイルへの愛を今一度改めて語ろうではないか。

 

http://livefreelivenatural.com/wp-content/uploads/2014/05/Coconut-Oil.jpg

 

 

気温24℃以上の今が一番旬なオイル

数年前から幾度かの愛用期間はあったのだけど

そろそろオイルが必要かな、と思って手を伸ばすのは大体が秋の半ば頃からだったので

気温の低下とともに徐々に固形になっていくため

とってもいいけど扱い辛いオイルという印象でした。

硬いとガリガリしなきゃいけないのが不便ですよね。

その為、ココナッツオイルの良さは知っておきながらも他の安定性のあるオイルに浮気をしていました。

 

今年は紫外線量が多いかも

元々結構重度の敏感肌。

さらに+して紫外線アレルギーと汗での炎症と戦わなければいけない夏は私にとっては最も辛い時期です。

特に今年は例年に比べ紫外線量が多いみたいで先月あたりに首筋が爛れて腫れ上がってしまい、

病院で塗り薬をもらって治療していました。

基本的に薬には頼りたくないのでどうやって乗り切ろうかと思案していたところ

美女からオイルで保湿することを勧められました。

 

夏にオイル?

美女とお話しする機会があると「とてもお美しいですね」と素直に感想を告げるので

男女どちらも許容範囲説を昔から囁かれている大豆です。

そのおかげで美女に囲まれるうきうきな日々なのでむしろ最高。

にんまりしてます。

 

今週始めもとてもお美しい女性がいらしたのでお話を伺っていたところ、

その方も敏感肌で元アトピー。夏はいまだに炎症を起こしてしまうとのこと。

ええー!肌が白くて綺麗で、全然そんなように見えません。

秘訣を聞いてみると、炎症を起こしてしまう夏こそオイルで保湿することを勧められました。

私も含め、敏感肌はクリームや乳液などが特に合わなくて使えないことが多いです。

多分色々な成分が入っているからだと思うのだけど、敏感肌用でもほぼ痒くなってしまうのよね。

それもあって化粧水、もしくはジェルのみのシンプルケアが基本でした。

乾燥を感じ始めたらオイルを塗るという感じにしていて夏は使っていなかったのだけど

美女が言うなら!とその晩から素直に実行してみました。

 

ココナッツオイルを選んだ理由

ココナッツオイルのラウリン酸は免疫強化。

感染症にも効果的で、代替医療アトピーにおすすめのオイルと紹介されていたので

炎症を起こしている今ならこれがベストかな、と思って選びました。

肌に合わなくても食べちゃえますしね。

低温圧搾法の有機食用ココナッツオイルを購入。

私が今使っているのはスーパーで購入した紅花食品のこちらです。

160gと市販品では小さめサイズなのでお試し用におすすめ。

 

http://photo.kenko.com/E384872H_L.jpg

 

ココナッツオイルの効果効能などについて

こちらのサイトが分かりやすく書かれているのでリンクを貼っておきますね。

ココナッツオイル17の効果効能と副作用とアレルギー。ケトン体と中鎖脂肪酸が鍵 | Beauty&Healthy-Life

 

大豆の現在の使い方

  • メイク落とし
  • 入浴後、濡れた肌に顔〜全身に塗布
  • ボディスクラブに入れる(過去記事参照)

choudoiisaizu.hatenablog.com

朝も洗顔後使ってみたけど、日中若干ムズムズしたので夜だけにすることにする。

濡れた肌にオイルを塗った後は普通にタオルで水分を拭き取り、その後化粧水を塗ります。

オイルだけだと少しムズムズしちゃうけど、化粧水を塗るといい感じにしっとりした状態に落ち着きます。

 

肌の炎症に効果絶大

ココナッツオイルを使い始めて約5日。

肌の炎症がかなり改善されました!

まだ赤味は若干残ってはいるけれど、痒みが全くなくなり手触りがもっちり。

傷を作りたくないので日中はムズムズしてもなるべく触れないように耐えていたけど

睡眠中にはどうしても無意識に触ってしまって朝起きると悪化していたのが悩みだったのですが、それもすっかりなくなったみたいで嬉しいです。

ココナッツオイルは触感が軽くて夏に最適ですね。

香りも夏!て感じ。全身甘い香り。

教えてくださった美女に次会ったらお礼しなきゃ。

個人的にはとってもヒットです。夏こそオイル、是非どうぞ。

それでは、素敵な週末を。

 

 

”いいひと”でも評価ガタ落ち。女の職場でやってはいけないこと

つぶやき

こんばんはスマホを水没させてしまった大豆製品です。

いい機会だから少しの間スマホ無し生活をしてみて本当に必要なのか見直してみようかしら。

ついでに本日乾燥機まで突然壊れました。なんなの。

 

 

さて今回、なるほどなーと思うことがあったので備忘録として書いておこうと思います。

職場に新人マダムが入って3ヶ月が過ぎました。

なんやかんやありつつ、とても頑張っているので私は応援しています。

新人マダムについての過去記事はこちら

choudoiisaizu.hatenablog.com

choudoiisaizu.hatenablog.com

 

彼女は販売キャリアは長いけどうちのような職場は初めてなので、色々とまだできないことがあるのは当然。

そこにはそこのルールがありますからね。

ただ「これは性急に直さないとクレームがきちゃうかも!」ということがあって

 その点について先日営業さんからマダムに注意がありました。

そこで起こったこと。

 

女の職場で絶対NGなこと

注意されたマダム、大号泣。

一時間半ほどは営業さんがひたすら慰めていた時間だったみたい。

で、計二時間半程お店に戻って来ず、店長がひとりでまわしていたそう。

女の職場で絶対NGなこと。

それは感情的になること、ましてや号泣してしまうこと。

勿論男女半々でも困ってしまうことだと思いますが

女性がほぼ占めている職場では一発NG。

一気に評価は急降下です。

女性は比較的感情的な性だと思っていますが

「仕事だから」と感情的にならないように意識していますよね。

だから余計、女性は女性の仕事中のヒステリックな面に敏感に反応すると思います。

どうしてもポロっと陰で泣いてしまう出来事はあるし

それはまだ大目に見てもらえることはありますが

今回はあまりにも仕事を中断する時間が長かったのも最大のミスでした。

 

私はその日休日だったので翌日マダム本人や営業さん、店長たちその他色んな人からその件について聞きました。

マダム本人曰く

「至らない部分もあるのを自覚してるけど、一生懸命頑張っているから注意されてショックで悔しくて泣いてしまった」と。

まあ確かに一生懸命頑張っているのを知ってるから気持ちはわかるよ。

悔しくてそんなに泣いてしまうほど仕事に対して懸命なのもすごいと思うし。

わかるけど

でもでも

 

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-aa/spgv55x9/folder/337041/73/10291073/img_0?1311065140

 

ていう古いネタを遠い目をしながら思い出しましたよね。

そしてやっぱり私以外の周囲の人はもっと辛辣な意見。こういうのは広まるの早いんですよ。

うーん。なかなか前途多難です。

そして私は今後も絶対極力職場で感情的にならないように徹しようと改めて心に刻みました。

それでは。

 

 

過去の虐待に、まだ苦しみ続けている方へ。同じ経験者による、ほんの少しだけ心が軽くなる方法 ③一番辛い時期と、過去を書いた理由のひとつ

過去のお話

なんと過去記事添付に成功しました。奇跡。

今回は書き辛かった時期で、時間がかかってしまいました。

だいぶ重く長く、且つ一番苦しい時期なので、色々とはしょって書きたいと思います。お互い疲れちゃうよね。

これで仲良くしてくれている人が引いちゃったらどうしよう、というのも書き辛かった理由。今後とも宜しくしていただけたら嬉しいです。

choudoiisaizu.hatenablog.com

 

一番辛い時期の始まり

私の不注意により、母が離婚成立前に、懇意にしている男性がいると知った父。

それからそう経たないある日、いつものように学校から帰宅したら家に父がいました。

促されるままリビングについていくと、そこには既にボロボロの状態になった母がいて、私は何が起こったのか分からず頭が真っ白になりました。

そんな私に向けて父は静かに言ったのです。

「今からお前の母親を殺して俺は自首するから、お前は警察に行きなさい」と。

この時のことはどうしても今も記憶が曖昧です。よっぽどショックな出来事だったんですね。

必死に殺さないでと哀願し、その隙を見て逃げだした母を父が刃物を振り回しながら追いかけて出て、私は閉じられた玄関の前で身動きもできず、徐々に遠ざかる母の悲鳴と父の怒声を聞きながら、ただただ泣き叫んでいました。

とにかく恐ろしく、玄関の扉を開けることができませんでした。

 

その後母と合流できたのですが、これからがまた思い出すのも恐ろしい日々。

家にいたら危険なので学校も休み、父から隠れるように母と共に車で逃避行に出たのですが、

だいぶ離れた地域でなぜか父に見つかり、ショッピングモール内を怒鳴りながら追ってくる父から泣き叫びながら必死で走って逃げたり、車を壊されたり等々。

この時完全に私の頭の中で決定づけられてしまったのです。

起こる不幸はすべて私のせいだと。

母にも否があると今なら思います。それでも、私が口を滑らせなければこんな死を覚悟するほどの恐怖を味わうこともなかったのに、とこれについては今でも後悔します。

 

心中未遂

警察に保護され、なんとか父からの逃避行生活は一旦幕を終えました。

しかし、もう既に母も私も、限界を超えてしまっていたんですね。

母から「もう疲れたから楽になろうか。あなたを産んだ責任として、ひとりだけは残さないから」と誘われました。

それを聞いたとき、私はとても安堵したのを覚えています。

母が「一緒に」と言ってくれたということは、私のことをまだ見捨ててないということでしょう?

そしてそれと同時に、私の世界を支配していた絶対の存在であった母を、ああ、この人は実は弱い人だったのかも、と徐々に目が覚めていく大きなきっかけにもなりました。

それでもやはり、母に見捨てられていなかった嬉しさと、これでやっと楽になれるんだという安堵感のほうが勝り、その提案に頷きました。

本当に壊れてますよね。依存状態というのは恐ろしいものです。

 

共依存のピークの中学時代

中学時代も心底最悪でした。

とにかく、父の件から、全ては自分に否があるという思い込みに支配されていた時期でした。

母との共依存はピークを迎え、私は常に母に見捨てられないようにしなければ、としか考えていませんでした。

益々母の、私に向けての「あんたさえいなければ」という憎しみからの虐待は加速。

血まみれになって意識が朦朧としたこともあります。

あと過度な束縛も加速しました。

私のものは持ち物全て内容を母がチェックし、友達も勿論母が選びます。付き合ってはダメな子と判断したら母から断絶の連絡がいきました。

私が自由が欲しい!と今も声高に求めているのは完全にこの支配下時代の影響です。

この過剰な束縛は10〜17歳まで続きました。携帯チェックも当然。

全て把握してコントロールしないと気が済まなかったんだと思います。

多分本当に所有物か何かと思ってたんでしょうね。一生分の束縛を受けました。だからもういらないの。

そういえば父が血が繋がっていないことを聞いたのもこの頃。

 

私も帰宅して玄関を開けた途端、自分の意志に関係なく反射的に涙が溢れて止まらない毎日。

それに対しても、すべて涙が出てくる自分が悪いのだと思っていました。

それでもなぜか「どこかへ逃げる」という選択肢は全く思い浮かばず、母に見捨てられないよう外では相変わらず優等生を必死に演じていました。

また、接触禁止令を出されていても父の影への恐怖はまだ終わりませんでした。

学校に脅しをかけてきたり等、父はなんとか私と会いたいと強硬突破を図り、他色々あって先生方にガードされながら帰宅したりと、大変な中学時代を過ごしました。

 

 

 母と絶縁の高校時代

もう中学までの間で、母との関係はこじれに拗らせたんでしょうね。

高校生になる頃には、お互いにほぼ憎しみしか抱いてなかったと思います。

私がとても遅い自我が急激に芽生えたことで、一気に反動がきて母に思い切り反抗するようになりました。

 喧嘩もかなりハードになり、お互いに生傷絶えない日々。加減を知ることがなく、どんどん加速していきました。

さすがに周囲の人も気づくようになり、先生方にもだいぶ心労をおかけしました。

そして高2の時、首を絞められた時に残った首もとにくっきりと浮かんだ指の痣を見て、先生とうちの親戚が介入し、ようやく母と離れることになりました。

このままだといずれ本当にどちらかを殺すことになりかねないから、お願いだから離れてと祖母に泣きながら言われたことを思い出しますが、本当にそのままだったら一歩手前までいっていたと思います。

親戚が生活費を出してくれ、先生のご好意で高校は絶対卒業するようにと色々と取り計らってくれました。

学費は自分でバイトをして捻出。

ほぼ眠れず相当ハードでしたが、先生などの協力もありなんとか卒業することができ進学というかたちで上京しました。この学費も勿論自分で出しました。

そういえば母と絶縁する少し前に、父との離婚がようやく成立しました。

母たちは大喜びでしたが、私は血も繋がってないし、完全に縁が切れてしまったことにひとりでひっそり悲しみました。さすがに母の前で悲しむことはできません。

あんなに怖い思いもしたのに、今もいい思い出のほうが鮮明に思い出されます。不思議ですね。

 

 

音信不通からの借金返済の日々

上京して数年間は全くの音信不通を貫きました。

実はその時母が捜索願を出していたこと、そして親友が私に内緒でたまに母に私の様子を連絡してくれていたことをだいぶ後に知りました。

そして初めて就職した先でストーカー被害にあい、東京にいられなくなり一年ほど母のもとに戻ることになりました。

この時はまだストーカーに対する処置が全く対応してくれなくて、この件で数年ぶりに母と連絡をとることになりました。

いざ行き場が無くなった時、結局母を頼ってしまう自分に幻滅し、それでもなり振り構っていられず。けれどこれが再び少しずつ繋がりを紡いでいく転機となりました。

また、父が借金を残し死去。その借金も、私に降り掛かりました。

彼は最期まで、私と母の名を呼びながら亡くなっていったそうです。

アリ地獄女の恐ろしさがわかるでしょう?共依存・ダメ・絶対。

 

 

 書いた理由

 さてここまで私の過去を書いていきました。

これが大体25歳までの話です。

虐待、心中未遂、自殺未遂、借金と結構ヘビーでした。まだ若干ライトに書いてます。

これを書いた理由のひとつが、これを読んで

自分はまだ少しマシかも...と思う人がひとりでもいたらいいなと思います。

道徳的には下を見て安堵してはダメだといわれていますが、私は正直それも必要なときもあると思っています。

 

というのも、私は自分が世界で一番不幸だと本気で思っていました。

ですから周囲の恵まれているように見える人に対し、何もかもにも腹が立っていた完全なる中二病をさらに拗らせたのを、恥ずかしながら地で爆走していました。

ところが、親しくなった人や尊敬している人の話を聞いていく内に

私には耐えられないような経験をしている人が何人かいて、それでもなんとか呑まれないように抗っている。

それなのに私はその人達の前でも世界一の不幸顔をして、

しょうがないでしょ、私は被害者なんだから!と掴み掛かる勢いで主張していた自分がとても恥ずかしく思うようになりました。

遅いけれど自分をようやく、少し離れてみることができるきっかけになったのです。

 

当の本人には起こった出来事が全てです。

私もまだ全然すっきり抜け出せるにはいたらず、これを書いて思い出している度その時に戻ったような気持ちになり、胸が苦しくなり、少しずつ書いていました。

「過去のことだと思えばいいよ」と何度もアドバイスを受けましたが、そりゃあ過去のことだけど、実際体験した傷は残ってるんだから辛いもんは辛いんだよ。そう思えるならとっくに思ってるわ!と噛み付いていました。

嘘。今も思うよね。随分安易なアドバイスだと思うわ。

 

 変えられないし逃げ切れないのなら

はじめにで書いた通り、過去は変えられません。

私やあなたが心の傷を負った事実も変えられません。

15歳から、今まで、全てこの環境から抜け出し、逃げ切るためだけに選択してきました。

気を抜いたらまたこの時の生活に戻ってしまいそうで、また心がこの時に戻ってしまいそうで、それがあまりに恐ろしくて前を向くために歩くのではなく、逃げるために必死で走っていました。

でも必死で逃げても逃げても足下に無数の手が絡み付き、少しでも緩めるとまたこの時に引っ張られて、落ちてしまったら二度と這い上がれない。

だってここまでしたのに無理だったら、もう無理、頑張れません。頑張り方もわかりません。

それでとにかく距離をとるため走りに走って、まだ足下に絡み付く手の感触はあるけれど少なくなった気がするし、もうだいぶ逃げ切れただろうと安堵していました。

ところが気づいてしまったのです。

足下に絡み付く手の数が少なくなったどころか、首を絞めるように絡み付く手の感触まで増えていることに。

一体どうして。愕然としました。振り返っても間違ってはない道をきたはずなのに。

そこで、もう逃げるのではなく、分析してみることにしました。

それはまるで自分で自分の内臓を切り開き、ひとつひとつ点検していくようなことでした。これは本当に辛かった。

それが今年の4月。思いっきり最近。

逃げてもキリがないなら、向き合って掘り下げて、根本的要因を探り当て解決するしかないと思ったのです。

そこで見えてきたこと等を、次に記したいと思います。

 私のことだから当てはまらない人も多そうだけど、でも何か思い当たる人もいくらかいるはず。

それでは、おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まるで織姫と彦星のように

つぶやき

こんばんは大豆製品です。
前回までのシリーズの続きをまだ少しずつ書きためてる途中ですが
昨日、シリーズの主役である母が東京に遊びに来ていたので
とれたてホヤホヤの今の気持ちを書き残していきたいと思います。

去年母に会った直後に書いた記事を見直してみると、疾走感溢れてますね。
さすがリアルタイム。
choudoiisaizu.hatenablog.com
choudoiisaizu.hatenablog.com


ちょっと面白かったので、今回もリアルタイムで残しておく。来年また見ようっと。

母が遊びに来た経緯

今までも毎年夏〜秋に東京に遊びに来るのが恒例行事だったのですが
去年、彼女&母彼氏の、これまで以上に研ぎ澄まされた失礼ぶりにブチ切れ
「迷惑だからもう二度と東京出てこないで」
「私のどこが迷惑だって言うの!?二度とこんなとこ来ないわよ」
とのやりとりを交わし
怒りにブルブル震えた手で記事を書いたのが去年のGWのこと。

私も帰らないし、もうしばらく会うこともないだろうと思っていたら
「来月遊びに行くチケットとったからね(キャピ☆)」との電話がいきなり入った先月。
いやいや、去年のやりとり覚えてる?と確認すると
「だから彼氏は連れて来ないで私ひとりで行くの」
と、私気を遣って偉いでしょばりの返答。
何この都合いいことだけポジティブに受け止める姿勢。
去年の私の涙を返してほしい。
「彼氏もだけど、その前にまずあなただよ!」という言葉を
こんなに楽しみにしているんだからと何とか飲み込み、しぶしぶ承諾。
ウキウキが止まらない様子の母と反比例し、気の重い日々を過ごしました。

一年ぶりに会って思ったこと

母と一年ぶりに会っての私の感想は
相変わらずやはり、好きではない、と思う。
人として合わないというほうが正しい。
それでも、色々含め今は彼女に対しある程度の感謝の念を抱いているから
好きではないけど大事にはしたいと思ってます。

美術や本など、掘り起こして見つけ出した自分の本当に好きなことは
元を辿れば全ては母の影響であることを改めて認識した日でした。
とは言っても絵の好みも本の趣味も全っ然合わないのだけれど
昨日一緒に行った美術館で観たゴッホのひまわりには2人して感動し
初めて彼女と感覚を共有できて感慨深い気持ちになりました。

未だに言葉はお互いうまく伝わることは一切ないけれど、まさか同じものを観て感動することができる日が来るなんて。
ゴッホ全然趣味じゃなかったのだけど、ゴッホすごい。
ゴッホで初めて繋がった母娘。ゴッホ言いすぎ。

http://www.sjnk-museum.org/wp/wp-content/uploads/2014/07/himawari.png


正直言ってやはり実際に会って
私が彼女を大事にできるのは年に1日の距離感が限界だなと実感しました。
その距離感は、ふたりで生きてきたことからしたらあまりにも少ないのかもしれない。
それでも一時は断絶していた縁をまた紡いで
大事にはしたいと思えるようになったのは大きな成長だと思えます。

毎回母へのプレゼントは私の勤務先のものを贈っているのだけど
今回は実際お店で自分で選びたいとのことで連れて行きました。
もうみんな、開口一番「本当そっくり!」と連呼。
彼女と私、昔から一目でわかるほど瓜二つの外見とよく言われるの。

去年のアリ地獄女の記事に書いたように、私はもうずっと彼女を母だと思ってません。
でも、ああーこれだけ皆に似てると言われるってことは、
やっぱりどうしてもこの人は私の母親なんだな、と、彼女が自分の親であることを実感しました。
年に一度だけ。
その日だけは、娘として会い彼女を母としてなるべく大事に接するのが今の私たちの”親子”としての今のギリギリの距離感。
彼女の娘であることは一生変わらないので
これからほんの少しずつでも、もう少し縁を紡ぐ努力をしてみようかな
と今はちょっぴり前向きに思ってます。

過去の虐待に、まだ苦しみ続けている方へ。同じ経験者による、ほんの少しだけ心が軽くなる方法 ②私の家族と、虐待の始まり

過去のお話

大豆製品です。

今回から、自分の虐待体験を書いていきたいと思います。

それで、簡潔に書くために実際経験した時期だけに絞ろうと思い出していたのですが、結局すべて繋がっていると思うので私自身の生い立ちをバーッと書いていくことにしました。

自分でもなかなか波瀾万丈だな、と思います。中学の頃の担任にいっそのことTV出たら?と言われたのを思い出しました。

長いのでお暇な時にご覧くださいね。

過去記事貼れないので、せめて少しでも読みやすいように「過去のお話」というカテゴリーを追加しました。

 

血の繋がった父を知らない

さて、まずは私の生まれの事情からのお話です。

私の実の父親は不明。

勿論母だけは確実に知ってますが、母に聞くと未だに半狂乱になり泣き叫ぶので話を引き出せず、他の親族に聞いても一族総出で沈黙を守っています。

戸籍を確認しても、父のところは白紙。

私を産むことを周囲に大反対されていたけれど押し切って産んだ、と母から聞きました。

母の地元は東北ですが、東京で働いていた時に出会った人?との子どもらしいので地元にいる親族はよく知らないかと思います。

祖母や叔母はその時既に東京で暮らしていたと思うのですが、母は当時疎遠になっていたようなのでとにかく不明。生死すら不明。

以上が私が知っている父の情報の全てです。

実の父については未だに謎しかないですが、今は知る機会があるなら知りたいけど、今更なことだと思っています。

でも、もし調べる方法をご存知の方いらっしゃったら教えてくださると嬉しいです。

 

唯一平和な時を過ごした8年間

記憶にあるのは大体2,3歳くらいからだと思いますが、父と母との3人で関東某所で暮らしていました。

私の地元は東北と周囲に言っていますが、暮らした期間は実は関東と東北の半々なんです実は。

 

育ての父は不動産会社を経営していた人でした。

母は彼との子どもをあえて作らなかったそうです。理由は後述するので今は割愛。

ひとり娘で、本当になに不自由なく我が侭に育ててもらいました。

母はこの時専業主婦。

彼女の宝石専用の部屋があったり、天井までの桐たんすにお着物がびっしりと入っていたりと、ある程度裕福に暮らしていたと思います。

大好きな犬もいて、おやつは母の焼いたケーキを食べて、お家は庭付き一戸建て。

庭には母が好きな薔薇をはじめ、様々な花で埋め尽くされていました。

今思えば笑えるくらい、理想の幸せを絵に描いたような家族像でした。

多分、母の理想の幸せ像を映し出していたんでしょうね。

思い出しても、私にとってもこの時が一番幸せでした。

父も母も大好きでしたし、父も、血が繋がっていない私を本当に大切にしてくれました。

平和な時を過ごした、唯一で、貴重な8年間でした。

 

父の裏の顔

父は不動産会社社長でした。表の顔は。

会社を経営していたのは本当みたいですが、裏の顔ももっていた人でした。

まあ実際、どっちが本業なのかは不明ですが。

それを聞いてから思い出せば、成る程と納得できる記憶はたくさんありました。

例えば毎日のようにリビングに集まっていた「父の部下」という人達が、今思えば随分厳つかったりとか、他諸々。

補足ですが、父は安岡力也氏に瓜二つでした。


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私今も結構応援していますけど、安岡力也氏。面影を感じるからなのね。

補足ついでに今思い出したけど、そういえば「お嬢」と呼ばれて盛大な誕生日パーティーやってもらってました毎年。

厳 つ い 大 人 た ち に 囲 ま れ て な。

知ったうえで思い出してみると、当時は色々と面白いことたくさんあるわ。これを肴にお酒呑んだら楽しそう。

 

幸せの終わり

10歳の夏休みの頃、母に連れられ、2人で母の故郷である東北に引っ越しました

私が聞いている理由は父の不動産会社の倒産。

それ以外にもたくさん理由はあったでしょうが、要は金の切れ目が縁の切れ目です。

実家といっても、もう東北に彼女の実家自体が存在するわけではありません。

彼女が育った家族もばらばらに崩壊していますから。

高校時代からの親友を頼りに、親友のお家のそばに娘を連れて移り込んだわけです。

ちなみにこの時はまだ父との離婚が成立していません。父が猛反対し、逃げてきた状態だったみたいです。

離婚が成立するのは私が17歳。これから7年後の話です。

 

専業主婦で過ごしていた彼女が、ただでさえ仕事が少ない田舎で、我が侭な子どもをひとりで育てるのは大変なことでした。

昼だけでは足りず、夜も働き始め、家には寝に帰るくらいになりました。

私はというと、標準語しか知らなかったのに方言の激しいところに行ったので、まず学校の先生の言葉すら聞き取れませんでした。

TVで字幕テロップつきで放映されるレベルの方言のとこです。

 そして田舎あるあるですが、言葉の違う人を排他的に見るのがどうしてもあり、それは子どもは特に顕著で、馴染むまでとても苦労しました。

家に帰っても、今までは専業主婦であった母が出迎えてくれたのが当たり前だったのに、独り。

言葉もわからないところに連れて来られ、家でも食事を独りで食べることになり、大好きだった父も、幼なじみもいない。

孤独で悲しくて、「帰りたい」「ここは嫌い」「独りでいるのも寂しい」と随分我が侭を言って毎日泣いていた記憶があります。

母も、私になるべく生活レベルを落とさないよう、侘しい思いをさせないようにしようと努めたのでしょう。

父がいないぶん、自分が父親と母親の二人の役をなんとかこなそうと随分無理をしたと思います。

習い事は続行させてくれていましたし、欲しいものなども色々買い与えてくれました。

そしてその為に昼夜働き心身ともに疲労が溜まり続け、そうまでしてるのに私は寂しくて悲しいと泣いている、という悪循環が始まりました。

 

虐待の始まり

いつから始まったのかは定かではないですが、まだ私は小学生だったので10〜12の頃からの気がします。

彼女も心身ともに疲れ果ててたんだと今では思うのですが、私が泣いたり、帰りたいと言うと感情を抑えきれなくなり、泣き叫びながら殴るようになりました。

もう精神が限界だったんでしょうね。

虐待経験者の皆さんもそうだと思うのですが、一度タガが外れると、どんどんエスカレートしていきました。

彼女からすると、私の為に自分がこんなにやっているのになんでその自分を困らせるようなことをするんだ、という気持ちだったんだと思います。

そして家には私と彼女の二人だけ。どうしても私に全て向かってしまうのも理解できます。

殴る蹴るから始まり、椅子やお皿など物で殴る。

「あんたさえいなければ」「あんたを産まなければよかった」と、

決まって同じ言葉を叫びながら殴り続けました。

この言葉は、私が上京する18歳まで彼女から常に浴びせられ続けた言葉です。

そして、私が今も一番抱えて離すことができない言葉です。

 

小学生の私は、言葉すらわからない見知らぬ土地で、母しか頼りになる人はいません。

地元にいる親戚にも当時は会ったことがなかったので、正真正銘、母に見捨てられたら誰にも頼れない、生きていけないと恐怖心を感じていました。

そういう子どもはどうするか?

常に母のご機嫌を伺うしかなくなるのです。

嫌われてはご飯も食べられませんからね。

実際、ご飯を食べさせてもらえず、お腹が空いて余所様から内緒でいただいたことも何度かありました。必死に母にバレないようにしながら道ばたで食べたりもしました。

 

子どもは不思議なもので、それでも私は母が好きでした。

だから、父がいたころは毎日身綺麗にしていた自慢の母の、疲れてやつれた顔や泣き叫ぶ姿を見る度に、本当に、私がいるから母をこんなのに変えてしまったのだと思っていました。

好きな母に嫌われないように、褒めて、優しくしてもらえるように、言われたことをきちんと守り、我が侭もなるべく抑えて、テストでも一番をとらないと。

この頃から、母に褒めてもらえるように毎日必死でした。

褒めてくれる時はいつもの、私の知っている優しい母に戻るからです。

それと同時に、母だけでなく、周囲の人全てに褒めてもらわないとだめだと思い込みました。

なぜなら、一番いい子は母にとって自慢になるからです。自慢の娘なら、愛してくれるでしょう?

 

 更なる崩壊のはじまり

それなのに、私はやってはいけないミスを犯してしまいました。

父からの電話で、決して言ってはいけないことを言ってしまったのです。

今思い出しても、最大の失言で、最大の後悔です。

父とは離婚調停中?かは不明ですが、東北に引っ越してから父と会えることはありませんでした。

母がいない時間に、父から数回、私に電話をかけてくることがあったのです。

 

リンクが貼れないのが残念ですが、「女郎蜘蛛」の過去記事で書いたように、我が一族の女たちは男性に縁が深い家系です。

勿論母も。そして彼女は共依存者。男性がいないと生きていけない女です。

つまり、東北に来てからも、男性の影は既に常にあったのです。

 

当時の彼女の「お友達」の男性を、私は嫌いでした。

この時はまだ父を実の父だと思っていたし、なんでこの人がいつもいるんだろう、と思っていました。

そして、父も彼女のそんな性質を知っていたのかは不明ですが、あるとき私に聞いてきたのです。

「お母さんは今、仲のいい男の人はいるのかな」と。

今思い出しても本当に後悔しかありませんが、バカな私は正直に答えてしまいました。

母も、私と父がたまに連絡をとっているということを知らなかったのです。

内緒だよ、と父とした約束を、私はバカ正直に、きっちり守っていたのですから。

ここで思い出して欲しいのが、父の裏の顔。

当時の私にとっては世界で一番優しい父の顔しか知りませんでしたが、この後離婚成立する17歳まで、私と母は父に怯えつづけ、更に母の虐待も加速する日々が始まるのでした。

 

 

と、次回予告のような終わり方で、長くなったので続きにします。

中高くらいが一番酷いので、先が長いですね。短くしよう。

それでは。