過去の虐待に、まだ苦しみ続けている方へ。同じ経験者による、ほんの少しだけ心が軽くなる方法 ③一番辛い時期と、過去を書いた理由のひとつ
なんと過去記事添付に成功しました。奇跡。
今回は書き辛かった時期で、時間がかかってしまいました。
だいぶ重く長く、且つ一番苦しい時期なので、色々とはしょって書きたいと思います。お互い疲れちゃうよね。
これで仲良くしてくれている人が引いちゃったらどうしよう、というのも書き辛かった理由。今後とも宜しくしていただけたら嬉しいです。
一番辛い時期の始まり
私の不注意により、母が離婚成立前に、懇意にしている男性がいると知った父。
それからそう経たないある日、いつものように学校から帰宅したら家に父がいました。
促されるままリビングについていくと、そこには既にボロボロの状態になった母がいて、私は何が起こったのか分からず頭が真っ白になりました。
そんな私に向けて父は静かに言ったのです。
「今からお前の母親を殺して俺は自首するから、お前は警察に行きなさい」と。
この時のことはどうしても今も記憶が曖昧です。よっぽどショックな出来事だったんですね。
必死に殺さないでと哀願し、その隙を見て逃げだした母を父が刃物を振り回しながら追いかけて出て、私は閉じられた玄関の前で身動きもできず、徐々に遠ざかる母の悲鳴と父の怒声を聞きながら、ただただ泣き叫んでいました。
とにかく恐ろしく、玄関の扉を開けることができませんでした。
その後母と合流できたのですが、これからがまた思い出すのも恐ろしい日々。
家にいたら危険なので学校も休み、父から隠れるように母と共に車で逃避行に出たのですが、
だいぶ離れた地域でなぜか父に見つかり、ショッピングモール内を怒鳴りながら追ってくる父から泣き叫びながら必死で走って逃げたり、車を壊されたり等々。
この時完全に私の頭の中で決定づけられてしまったのです。
起こる不幸はすべて私のせいだと。
母にも否があると今なら思います。それでも、私が口を滑らせなければこんな死を覚悟するほどの恐怖を味わうこともなかったのに、とこれについては今でも後悔します。
心中未遂
警察に保護され、なんとか父からの逃避行生活は一旦幕を終えました。
しかし、もう既に母も私も、限界を超えてしまっていたんですね。
母から「もう疲れたから楽になろうか。あなたを産んだ責任として、ひとりだけは残さないから」と誘われました。
それを聞いたとき、私はとても安堵したのを覚えています。
母が「一緒に」と言ってくれたということは、私のことをまだ見捨ててないということでしょう?
そしてそれと同時に、私の世界を支配していた絶対の存在であった母を、ああ、この人は実は弱い人だったのかも、と徐々に目が覚めていく大きなきっかけにもなりました。
それでもやはり、母に見捨てられていなかった嬉しさと、これでやっと楽になれるんだという安堵感のほうが勝り、その提案に頷きました。
本当に壊れてますよね。依存状態というのは恐ろしいものです。
共依存のピークの中学時代
中学時代も心底最悪でした。
とにかく、父の件から、全ては自分に否があるという思い込みに支配されていた時期でした。
母との共依存はピークを迎え、私は常に母に見捨てられないようにしなければ、としか考えていませんでした。
益々母の、私に向けての「あんたさえいなければ」という憎しみからの虐待は加速。
血まみれになって意識が朦朧としたこともあります。
あと過度な束縛も加速しました。
私のものは持ち物全て内容を母がチェックし、友達も勿論母が選びます。付き合ってはダメな子と判断したら母から断絶の連絡がいきました。
私が自由が欲しい!と今も声高に求めているのは完全にこの支配下時代の影響です。
この過剰な束縛は10〜17歳まで続きました。携帯チェックも当然。
全て把握してコントロールしないと気が済まなかったんだと思います。
多分本当に所有物か何かと思ってたんでしょうね。一生分の束縛を受けました。だからもういらないの。
そういえば父が血が繋がっていないことを聞いたのもこの頃。
私も帰宅して玄関を開けた途端、自分の意志に関係なく反射的に涙が溢れて止まらない毎日。
それに対しても、すべて涙が出てくる自分が悪いのだと思っていました。
それでもなぜか「どこかへ逃げる」という選択肢は全く思い浮かばず、母に見捨てられないよう外では相変わらず優等生を必死に演じていました。
また、接触禁止令を出されていても父の影への恐怖はまだ終わりませんでした。
学校に脅しをかけてきたり等、父はなんとか私と会いたいと強硬突破を図り、他色々あって先生方にガードされながら帰宅したりと、大変な中学時代を過ごしました。
母と絶縁の高校時代
もう中学までの間で、母との関係はこじれに拗らせたんでしょうね。
高校生になる頃には、お互いにほぼ憎しみしか抱いてなかったと思います。
私がとても遅い自我が急激に芽生えたことで、一気に反動がきて母に思い切り反抗するようになりました。
喧嘩もかなりハードになり、お互いに生傷絶えない日々。加減を知ることがなく、どんどん加速していきました。
さすがに周囲の人も気づくようになり、先生方にもだいぶ心労をおかけしました。
そして高2の時、首を絞められた時に残った首もとにくっきりと浮かんだ指の痣を見て、先生とうちの親戚が介入し、ようやく母と離れることになりました。
このままだといずれ本当にどちらかを殺すことになりかねないから、お願いだから離れてと祖母に泣きながら言われたことを思い出しますが、本当にそのままだったら一歩手前までいっていたと思います。
親戚が生活費を出してくれ、先生のご好意で高校は絶対卒業するようにと色々と取り計らってくれました。
学費は自分でバイトをして捻出。
ほぼ眠れず相当ハードでしたが、先生などの協力もありなんとか卒業することができ進学というかたちで上京しました。この学費も勿論自分で出しました。
そういえば母と絶縁する少し前に、父との離婚がようやく成立しました。
母たちは大喜びでしたが、私は血も繋がってないし、完全に縁が切れてしまったことにひとりでひっそり悲しみました。さすがに母の前で悲しむことはできません。
あんなに怖い思いもしたのに、今もいい思い出のほうが鮮明に思い出されます。不思議ですね。
音信不通からの借金返済の日々
上京して数年間は全くの音信不通を貫きました。
実はその時母が捜索願を出していたこと、そして親友が私に内緒でたまに母に私の様子を連絡してくれていたことをだいぶ後に知りました。
そして初めて就職した先でストーカー被害にあい、東京にいられなくなり一年ほど母のもとに戻ることになりました。
この時はまだストーカーに対する処置が全く対応してくれなくて、この件で数年ぶりに母と連絡をとることになりました。
いざ行き場が無くなった時、結局母を頼ってしまう自分に幻滅し、それでもなり振り構っていられず。けれどこれが再び少しずつ繋がりを紡いでいく転機となりました。
また、父が借金を残し死去。その借金も、私に降り掛かりました。
彼は最期まで、私と母の名を呼びながら亡くなっていったそうです。
アリ地獄女の恐ろしさがわかるでしょう?共依存・ダメ・絶対。
書いた理由
さてここまで私の過去を書いていきました。
これが大体25歳までの話です。
虐待、心中未遂、自殺未遂、借金と結構ヘビーでした。まだ若干ライトに書いてます。
これを書いた理由のひとつが、これを読んで
自分はまだ少しマシかも...と思う人がひとりでもいたらいいなと思います。
道徳的には下を見て安堵してはダメだといわれていますが、私は正直それも必要なときもあると思っています。
というのも、私は自分が世界で一番不幸だと本気で思っていました。
ですから周囲の恵まれているように見える人に対し、何もかもにも腹が立っていた完全なる中二病をさらに拗らせたのを、恥ずかしながら地で爆走していました。
ところが、親しくなった人や尊敬している人の話を聞いていく内に
私には耐えられないような経験をしている人が何人かいて、それでもなんとか呑まれないように抗っている。
それなのに私はその人達の前でも世界一の不幸顔をして、
しょうがないでしょ、私は被害者なんだから!と掴み掛かる勢いで主張していた自分がとても恥ずかしく思うようになりました。
遅いけれど自分をようやく、少し離れてみることができるきっかけになったのです。
当の本人には起こった出来事が全てです。
私もまだ全然すっきり抜け出せるにはいたらず、これを書いて思い出している度その時に戻ったような気持ちになり、胸が苦しくなり、少しずつ書いていました。
「過去のことだと思えばいいよ」と何度もアドバイスを受けましたが、そりゃあ過去のことだけど、実際体験した傷は残ってるんだから辛いもんは辛いんだよ。そう思えるならとっくに思ってるわ!と噛み付いていました。
嘘。今も思うよね。随分安易なアドバイスだと思うわ。
変えられないし逃げ切れないのなら
はじめにで書いた通り、過去は変えられません。
私やあなたが心の傷を負った事実も変えられません。
15歳から、今まで、全てこの環境から抜け出し、逃げ切るためだけに選択してきました。
気を抜いたらまたこの時の生活に戻ってしまいそうで、また心がこの時に戻ってしまいそうで、それがあまりに恐ろしくて前を向くために歩くのではなく、逃げるために必死で走っていました。
でも必死で逃げても逃げても足下に無数の手が絡み付き、少しでも緩めるとまたこの時に引っ張られて、落ちてしまったら二度と這い上がれない。
だってここまでしたのに無理だったら、もう無理、頑張れません。頑張り方もわかりません。
それでとにかく距離をとるため走りに走って、まだ足下に絡み付く手の感触はあるけれど少なくなった気がするし、もうだいぶ逃げ切れただろうと安堵していました。
ところが気づいてしまったのです。
足下に絡み付く手の数が少なくなったどころか、首を絞めるように絡み付く手の感触まで増えていることに。
一体どうして。愕然としました。振り返っても間違ってはない道をきたはずなのに。
そこで、もう逃げるのではなく、分析してみることにしました。
それはまるで自分で自分の内臓を切り開き、ひとつひとつ点検していくようなことでした。これは本当に辛かった。
それが今年の4月。思いっきり最近。
逃げてもキリがないなら、向き合って掘り下げて、根本的要因を探り当て解決するしかないと思ったのです。
そこで見えてきたこと等を、次に記したいと思います。
私のことだから当てはまらない人も多そうだけど、でも何か思い当たる人もいくらかいるはず。
それでは、おやすみなさい。